扶桑古国の大和民族 — 臺湾人から見る日本人
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•台湾歴史博物館 提供 •台湾歴史博物館 提供

台湾の原住民は早い時期にすでに日本の商人や漁師と接触していたはずである。オランダ統治時代においては、日本の商人がオランダの総督を人質にした「濱田弥兵衛事件」(タイオワン事件)もある。しかし、ほとんどの日本人に対する記録は日本統治時代に入ってからのものである。日本統治時代の台湾で語り継がれていた「こっちは花を挿すが、彼は草を挿す(新年に飾り藁を挿すことから)。こっちは赤ん坊を抱くが、彼は犬を抱く。こっちはゆっくり歩くが、彼はいつも急いで走る。こっちは轎子に乗るが、彼らは糞出し(今で言う塵取り、帚)に乗る(人力車の形が帚に似ていることから)。こっちは赤木の床で寝るが、彼は厠の隣で寝る(日本人の昔の宿舎ではトイレが部屋の隣にあったことから)」という童謡があるが、これは台湾人と日本人の生活習慣の違いを表しているほか、日本人を皮肉ったものでもある。台湾に滞在していた「内地人」の総人数は、日本統治の後期になると、40万人あまりにも上った。台湾人が日本人に対する愛と恨みの混ざった感情を描写したものには様々なものがある。古典文学においては漢文詩人による総督を賞賛するものや、「内地」での観光を描写した詩作があり、新文学においては、当時、取り締まりの厳しかった警察から始まり、人徳のある教師や、礼儀正しい庶民、大和撫子のような女性などが描写されている。このコーナーは主に二つのテーマに分かれており、一つは日本統治時代に台湾人が日本の官僚と庶民を描いたものと、戦後の台湾の作家がテクストをとおして日本人を描いたものである。