同じ文化の異民族、生活の再構築
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環境衛生のほか、彼は一切干渉しなかったが、衛生面においてはとても熱心だったし、毎日が同じことの繰り返しだった。彼の生活はまるで時計に刻まれているように正確で、定刻に既定の道路に出るのだ。そのおかげで彼が通る道の家々では、みな早めに自宅の前を清掃するようになったのだった。このように、私の住んでいた街の家々ではみな、朝早く道路を清掃することが日課となったのだ。 — 葉榮鐘「私の青少年生活」

乙未(1895)年、下関の料理店「春帆楼」の酒席において清国と日本は台湾の未来を決めた。感情面と日常生活の面においても台湾は大きな変化に直面し、言葉をはじめとして、服装や日常生活など全てが一変した。台湾総督府は台湾人の文化風俗を徹底的に変えようと、積極的に教育体制を改変し、台北の近郊に「芝山巌学堂」を設立し、統治期の教育を始めた。

 衝突が絶えない日本統治初期において、台湾は少しずつ漢と和の境界線に近づき、同文異族と言われたが、実際には異なっていたのだ。旧暦かの時辰から新暦へ、泥の道路からアスファルトへなど生活の変化を始めとして、日本統治下による近代化の歩みとともに、台湾も「清潔」「整然」「礼儀正しい」「時間を守る」という新しい境地に向かいつつあった。