西洋の墨汁を一滴飲んで、世界へのドアを叩く
字級: S M L

•臺北市立美術館 提供 •臺北市立美術館 提供

明治期から大正期にかけて、日本思潮と文学作品などの受容が、台湾の知識層たちが世界へ進出するステップの一つとなった。大正デモクラシーの時代には、知識が爆発的に広まり、宗主国の日本から植民地の台湾に至るまで、既成の秩序を打破し新しい社会を構築することが渇望されていた。台湾ではこういった思潮の中で台湾新文学の運動が起り、独特の光景を見せていた。帝国主義の色彩が濃い時代に、台湾のエリートたちがそのまっただ中で先頭に立ち、目を輝かせていた。

「上を目指せ!」それは1920年代の台湾の知識層たちの唯一の考えであった。植民地という厳しい環境において、作家たちは積極的に中央文壇を目指して、世界文学のドアを叩くための踏み台を作ろうとした。その中には、作家の龍瑛宗や、楊逵、呂赫若などがおり、また画家たちもそうであった。初めて日本の「帝展」に選ばれた陳澄波や「台展三少年」と呼ばれる陳進、林玉山、郭雪湖などといった顔ぶれは当時の台日間の文化の世界では相当な注目を浴びていた。

台湾の知識層は衝撃や挫折を経験したが、それでも乗り越えようとし、その中でそれぞれの突破口を見つけようとした。そして台湾人たちが生活していく上でのプライドを身につけたのだった。