われらは開拓者であり、鈍い奴隷などであってたまるか
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•林文哲家族 提供 •林文哲家族 提供

1914年12月20日、「台湾同化会」は台湾鉄道ホテルで成立大会を行った。日本の政治家板垣退助や田川大吉郎などが台湾を訪問した。1921年10月17日、西洋の近代思想の洗礼を受けた台湾のエリートたちが、台湾の文化的啓蒙を目的として「台湾文化協会」を設立した。このように、この時期は台湾が目覚めた時期でもあり、文化、教育、政治、社会などがテーマになって、知識層の社会的実践をとおして北から南まで台湾全体が活力で満ちていた。台湾人は鈍い奴隷などではなく、「台湾は帝国の台湾であると同時に、我等台湾人の台湾である」のだ。書物の発行や新聞社の成立をはじめとして、一般向けの講習会や講演会、夏期学校をとおして、台湾全島では「文化的啓蒙運動」が盛んに行われていた。台湾だけでなく、この時期は世界中で自我に目覚めた社会運動が起こり、「少数民族の自決」は「啓蒙的」なスローガンになり、文化運動の幕が明けた。この時期の文化的啓蒙の運動は、その後もずっと影響を残し、現在でも重要な文化的記憶となっているのだ。